寝れない夜は

ここ最近眠れない夜を過ごしている。

 

今日も眠れない。

 

寝たい。寝たい。寝たい。今すぐ寝たい

不眠症でもなんでもなくて、寝ようと思えばいつでも寝れる私なのですが、

午前2時前後にやらなければならないことがある。

 

かんこく版のデスノートミュージカルのチケットを買おうと試みているのです。

 

かんこくのミュージカルのチケットは発売日に全席をネットで座席を指定出来る状態で売り出すみたいです。発売時間にパソコン前に待機して、早いもの勝ちで良い席が取れる仕組みのようです。

デスノートのチケットは発売開始とともに数秒で売り切れてしまい、私は買えませんでした。

 

しかし、日本と大きく異なり、前日までキャンセル可能なのです。

(予約して1週間後からキャンセル料が発生するけれども、2週目までは数百円?みたい、前日でも30パーセントしかキャンセル料が取られない)

 

つまり、一度全部売り切れたとしても、キャンセルで購入できる可能性が高い!ということです。

(逆に言えばチケットを取っておいて後で手放すことが可能なのです。便利ですね)

 

そして、午前2時前後に前日キャンセルとなった分の席が画面上に反映しているようなのです。

 

「ようなのです。ようです。」と確定していない言葉で書いているのは、私はハングルが読めないので全部聞いた話だからです。

(予約画面は日本語標記がありますのでハングルできなくても問題ない。)

 

でも、午前2時前後にキャンセル席が反映するのは間違えないみたいで、実際毎日午前2時前後に大量の席が空席として予約可能なります。

 

それも3秒で売り切れてしまいますが。

(みんなパソコンの前で構えているようで、一瞬のクリックの差で売り切れてしまう)

 

一応、私もキャンセルとなった分で、後方席は購入は出来たのですが、もっと前の席でみたいじゃない?

 

そろそろ2時ですので、今日はここまで。

 

 

 

 

 

 

 

 

浦井ライトと柿澤ライトの違い(デスノートミュージカルネタバレしてます)

注意!ネタバレしてます!
 
 
 
デスノートミュージカルは主人公のライトがWキャストだった。
 
柿澤ライト4回、浦井ライトで1回見た。
 
特に柿澤君のファンということではなく、(私は鹿賀さんのファン)
 
私の予定が空いている日を選んだら、柿澤ライトに偏ってしまった。
 
Wキャストだと違うのは当たり前だが、雰囲気が違うというレベルではなく、
 
違う話のようにさえ見えた。
 
 
 
柿澤ライトを3回見た後、浦井ライトを見た。
 
あまりの違いに驚いた。
 
 
 
柿澤ライトには狂気があまり見えない。知性も感じられない。天才故の孤独感もなく、どこにでもいる少年。クラスに一人はいるような、勉強ができる優等生という感じだ。
 
これは、以前スリルミーの舞台を見た時に柿澤君に対して同じように感じたんだけれども、スリルミーで柿澤君演じる「彼」はニーチェを愛読しているようなインテリジェンスを持った人間には見えなかった。
 
だけれども、デスノートのライトはそれでも良いと思った。
 
どこにでもいるごく普通の少年が歪んだ価値観を盾に、人を殺しまくる。
 
インターネット大好き、ネットで理論武装した、アホな今時の少年像が浮かび上がる。
 
本人は純粋無垢なのに、やっていること言っていることは全て狂っている。純粋故に、間違っていることに気がついていない。
 
ただし、Lのプロファイリングと一致していないように思う。幼稚ではあったが、負けず嫌いなのは柿澤ライトからはあまり伝わってこなかった。
 
 
 
一方、浦井ライト。狂気が爆発し、2幕になると、舞台全体を支配する。顔つきにとどまらず、声質や歌唱方法も変わっていく。
 
天才故に自分に絶対的な自信を持ち、家族、女、死神さえもだまして利用する。
 
心を支配し、自分にとって心地良い世界を作るために画策する。
 
サイコパスな殺人鬼がそこにいた。
 
 
 
ライトがリュークに「死神の殺し方はないの?」と一幕で聞くシーンがある。
 
柿澤ライトは純粋に不思議に思って聞いているのかな?と感じたが、
 
浦井ライトはリュークに殺意を持っている。疎ましく思っているか、もしくは死神を殺せば、自分の死を回避(永遠の命を手に入れる)出来るのではないかと考えているのだろうと感じぞっとした。
 
リュークとの関係性も違う。柿澤ライトは普通にリュークと会話をしているが、浦井ライトはリュークの質問にぼそぼそと返事をする。会話というよりもほとんど独り言だ。自分の意見を声にしているに過ぎない。相手の話は聞いていない。
 
 
 
どちらのライトが良いか?と問われると難しい。
 
 
 
浦井君は王子のような顔をしているのに、ライトを演じている間は涎まみれになりながら、狂気に酔いしれた悪い表情をして歌う。完全に狂っていて見ていて気持ちが悪い。歌も柿澤君より声量があり圧巻だ。テニスのシーンも負けず嫌いが露呈して迫力がある。舞台全体をライトの狂気で支配する。キラのカリスマ性が見て取れる。
 
しかし、あまりにもライトの狂気が強すぎて印象的なので、他の関係性が見え辛くなってしまう。レム、ミサ、父親、妹、L、全ての印象が薄くなってしまう。浦井君のライトを前にすると他の役柄が全て脇役となり霞んでしまう。
 
特にLとの関係性。柿澤ライトとLはコインの表裏、表裏一体、最後までライバルのように見えた。けれども、浦井ライトとLとの関係は浦井ライトの方がはるかに強く、Lは終始追うだけで負けるのが確定しているように見える。テニスのシーンから最後までずっと。
 
 
 
柿澤ライトは、他の登場人物の関係性が明確に浮かびあがる。レムとミサ、父と子、妹と兄、ミサとライト。同じ脚本であるのに丁寧に描いているように見える。
 
 
 
原作に近いのは浦井ライトかもしれない。天才・狂気を持っている。
 
しかし、群像劇として見たいなら柿澤ライトなのかなという気がした。
 
浦井ライトは群像劇の要素が半減していたような気がする。
 
私のご贔屓の鹿賀さんを楽しめたのも柿澤ライトの方だった。
 
浦井ライトの時は迫力がすご過ぎて、他の人物を見ている余裕はなかった。
でも、浦井ライトの方が私は好きかも。人間の狂気を見るの大好き♡

デスノートミュージカルの感想(ネタバレしかしていないので注意)

デスノートMUSICALを3回見たので感想を書くよ。以下最初からネタばれしかしてないので注意。

(柿澤ライトを3回見た&鹿賀丈史が好き&歌詞を全然思い出せない人の感想です。)

 

 

この舞台で違和感を持った場面が二つあった。

一つ目はラストのリンゴ。

二つ目もラストでレクイエムを歌わない人物。

 

~リンゴ~

舞台上でリュークはリンゴをかじり、時々吐き出す。

リンゴをネットで検索すると「アダムとイブのリンゴ、禁断の果実、知恵の実、原罪、不法、不道徳、有害な快楽や耽溺、アイザックニュートンアップルコンピューター、アランチューリングのリンゴ自殺、白雪姫のリンゴ」等々キーワードが出てくる。

 

ラストのリンゴ。

リュークが、死んだライトの胸の内ポケットからリンゴを取り出す。それまで、ライトがリンゴを持ち歩いている描写はないし、リンゴを渡す描写もない。あまりにも、不自然すぎる。

 

胸から真赤なリンゴを取り出す、真赤な心臓のようなリンゴ、つまり命を奪う。

 

リュークはリンゴが好物。罪の果実、原罪、不道徳、有害な快楽、耽溺・・・・。自分の虚無感を埋めるための唯一の楽しみが、人間が罪を犯すのを見ること。罪を増幅させるために、禁断の果実である「デスノート」を人間に与える。

ノートに書くだけで人を殺せる恐ろしい力を手に入れたライトは、「新世界の神になる」という呪いにかかる。ライトの胸のリンゴは熟れに熟れ、犯罪者だけではなく、罪を犯していないFBI、警察をも殺してしまう。

リュークはリンゴが真赤に熟れて腐る前に、もいで食べた。けれども、口に含だリンゴを吐き出しながら「お前も普通の人間だったな」「何の意味もない。意味がないことが一番つまらない。」と冷たく言い放つ。死体を蹴る。

 

ここまで書いて気がついたけれども、リュークの視点は私たち、一般の大衆と同じなのではないか。他人の不幸をセンセーショナルに報道するマスコミ、犯人の個人情報、家族の情報をネットに晒して正義感振る人、みんな楽しんでいる。他人の不幸を。

そしてすぐ飽きて次のセンセーショナルな事件を消費する。去年起きた事件はみんな忘れている。くだらない、つまらない、最悪、恐ろしいと言いながら求めている。

自分より不幸な他人を。

 

そこにあるのは虚無感。退屈な日常。

神のいない、絶対的価値観のない世界。

ライトは悪人を殺し「新世界の神」となることで新しい価値観を構築しようと画策する。

ライトの使っているパソコンはアップル。

インターネットでキラの評価をいつもチェックする。若者たちはキラに熱狂し、スマートフォーンで情報を追う。ツイッターで情報交換。つまらない日々をつぶすには面白いネタ。

美砂はライトに愛を与えることで、レムは美砂に愛を与えることで、自分の虚無感を埋めている。愛に依存する人間。

 

リューク以外に舞台上で赤い実を食べる人物がいる。

Lである。Lはさくらんぼ?のような小さな赤い実をぱくぱく食べる。

悪を見つけて捉える事が唯一の楽しみだ。

キラの犯罪捜査に加わってからは、捕まえることに夢中になるが、途中からキラの存在そのものに、自分の存在意義を見出してしまう。表裏一体のキラがこれ以上暴走すると、Lも暴走してしまう。そのため、最後はライトを殺しに行くのだろう。自分の暴走を止めるために。

 

 

~ラストでレクイエムを歌わない人物~

ラスト、死神以外の出演者が全員舞台上に現れて、ライトとLの亡骸を囲みレクイエムを歌う。

ただし、ここで舞台上にいるにも関わらず、レクイエムを歌っていない人物が二人いる。

美砂と夜神総一郎である。

なぜ歌っていないのか?

死者へのレクイエムが歌えないということは、つまり彼らも死んでいるからであろう。

 

美砂は自分の寿命をも削って愛を捧げていたライトが死んで、自分の唯一の存在意義を失ってしまった。死んだも同然。

手のひらに大切そうに抱えた砂(レム)をサラサラと舞台の下へ落とすのは、レムの愛を覚えているからであろうか。

 

総一郎は、横たわるライトの横に立ち、冷たい表情で亡骸を見つめる。

ライトの妹、海砂が膝をついて悲しんでいる姿とは対照的だ。

父総一郎はライトを心から信頼し、溺愛していた。

ライトも父を尊敬し、父の背中を追いかけて、さらには父を超えようとした。

一幕でライトと一緒に歌う総一郎はとてもうれしそうで、誇らしげだった。

しかし、二幕の総一郎のソロ。息子がキラかもしれない、けれども息子は人を殺す人間であるはずはないと葛藤する。この時点ですでにライトがキラであるということをほぼ確信している。息子が犯人であることは間違いないとは思いつつも、犯人であって欲しくないという強い願い、祈りなのだろう。そして、ライトへの無償の愛情。

レムが美砂を愛するように、美砂がライトを愛するように、総一郎も見返りを求めない愛をライトに注いでいる。ただし、正義感の強い総一郎は、レムや美砂と違い、愛と正義感の間で揺れ動く。

 

最後のレクイエム。

海砂はライトがキラだと気がついていない。大好きな兄が死んで悲しみに、打ちひしがれている。

一方の、総一郎の表情は悲しみに溢れているというよりも、冷たい印象、固い表情をしている。

Lに「息子が犯人なら父親である自分が罰を受けなければならない!ライトはキラではない!」と感情的に叫ぶシーンがあるが、まさに自分がライトの罪に対する罰を背負う覚悟でいるのであろう。ライトが死んでしまった悲しみよりも、ライトが犯した罪の大きさを考えているのかもしれない。それまで築いてきた仕事、正義感の喪失、愛する者の喪失。ライトは父親も殺したのである。                           

退屈な日常こそ、死に至る病

 

 

 

以上、私にはこのようにデスノートのミュージカルが見えた。

他の人にはどう見えたのか、私は知らない。

メタファーだろうと思ったものも、全て私のこじつけで何の意味もないのかもしれない。

そもそも、世の中の全ての物事で絶対的な意味や価値があることなんてあるだろうか?。

意味がないと思えば、何も意味を見出せない。

見ようとしなければ何も見えないし、聞こうとしなければ何も聞こえない。価値がないと思えば何の価値もない。

みんな自分の存在に無理やり意味を、価値をつけて生きているんでしょう。

この文章にも何の価値も意味もない。なぜ書いているか?

全て暇つぶし。

けれども、舞台を見て、セリフや歌を聞いて何かを感じた気になること、意味を考えることはとても楽しい。